バレエが好き

家の前が幼稚園で昔はその幼稚園のホールでバレエのお稽古が週2回のペースで行われていました。
その頃にしては珍しい男性の先生で杉並区から水色のワーゲンに乗って、この小金井市まで来てお稽古をつけてくれていました。
とても優しく、センスが良く、今思えば忍耐力のある伸びやかな先生でした。いっぺい先生。
いっぺい先生がニューヨークに出張ということで留守の期間、奥さん先生に見てもらっていたことがありましたが、厳しくてびっくり!! 本当はこうでないといけないんですね。
みんなでいっぺい先生早く帰ってきてほしいねとヒソヒソささやきあったことを覚えています。
基本のレッスンで使用する音楽はチャイコフスキー、くるみ割り人形からでした。
身体に染みるように曲が入って行きました。
残念なことに小金井のレッスン生は野猿のような子供達ばかり(一緒だった方々ごめんなさい)で元気だけが取り柄というような・・・。よくあの様子で続けてくれていたと思います。中には抜きん出た子供もおり、そういった子供は杉並のクラスの方に出かけていた様です。
年に1回の発表会は5月の連休の中盤に、今はもう無い平河町の都市センターホールで行われ、杉並のクラスも含めた子供心にも大きな会でした。
そこでの小金井クラスはいつも垢抜けないなど、影では言われ、下に見られていた様です。とほほ。
お稽古ごとの中でもバレエは楽しくて(才能なくても)4歳から12歳まで続けました。
今の子供達のように足も長くもなく、バレエのクラスもそんなに無い頃のおはなし。
大人になって知ったこのいっぺい先生はというと、
福田一平
1926-2011 舞踊評論家
〜早稲田大学で児童舞踊のサークルをやっていたが、1950年に中退し、檜健次の門下となる。1950~60年代には、関矢幸雄 黒岩延浩、石川須妹子らと共に、檜スタイルによる日本的な現代舞踊の創作に力を注いだ。1961年の福田一平・幸子創作舞踊公演(産経ホール)で発表した『マリアの首』など、現代舞踊の作品多数。
1965年あたりから、石井みどり、江崎司、五条雅巳、藤蔭静枝、青山圭男、折田克子らと日本各地の民族舞踊の収集・舞台化を行い、日本民族舞踊団を結成して海外公演にも出かけることも多かった。後に日本民俗芸能協会を結成し、これを終生の仕事とした。
1970年代後半から舞踊評論に転じ、実作者としての経験を生かして、綿密で実証的、かつ穏健な評論を書き続けた。文化庁関係の委員を歴任し、服部智恵子賞、橘秋子賞、東京新聞舞踊芸術賞、松山バレエ団賞等の選考、各種コンクールの審査にも関わった。また日本舞踊の作者として、歌舞伎の舞踊場面の振付者としても、多くの仕事をこなしている。〜
とありました。山野博大氏の2011年ブログよりいただきました。
この世界ではとても高名な先生でした。音楽など本物を浴びさせてくれたこと、感謝しております。
3年ほど前に公演のロビーでお声かけさせていただいた時はお元気でしたのに、あの後くらいに亡くなってしまっていたのですね。先生から感性と本物を見る目は磨かれたように思います。
早くに自分は踊ってはいけないと悟ったことも良かったです。今でも鑑賞は大好き。バレエ音楽も大好き。
血が騒ぐといっては大げさかもしれませんがそんな感じです。次は好きなダンサーについて書こうかな。
写真は楽屋入り口の階段踊り場にて。妹と。1975年くらい?